2019年名古屋市出身の落語家としては、三遊亭圓丈以来41年ぶりに真打に昇進した瀧川鯉斗さん。
甘いマスクから女性からの人気も高く、高座には若い年代の観客も増えているそうです。
そんな瀧川鯉斗さんですが、若い頃は喧嘩が強く、暴走族の元総長を務めていたということがわかっています。
今回は瀧川鯉斗さんについて確認していきたいと思います。
【画面】瀧川鯉斗は総長(暴走族)だった!
引用元:SponichiAnnex
瀧川鯉斗さんは、父親が転勤族(大手電子機器メーカー)のため
- 東京生まれ
- 愛知県名古屋出身
- 札幌(3歳~小学3年生迄)
- 名古屋(~17歳頃迄)
といろんな土地で青春時代を過ごしたそうです。そして名古屋に戻った小5の時には
小5くらいからグレ始めて、みんなが教室でテストを受けているのに僕は抜け出して画鋲で耳にピアスを開けたりしてました
出典元:日刊ゲンダイDIGITAL
ただ家族の中(兄、姉、本人、弟の4兄弟)の中でグレたのは鯉斗さんぐらいだったそうです。
実はよい家庭に育っているエピソードがあります。
僕の父は大手電子機器メーカーに勤めるまっとうなサラリーマン。父は全国転勤があるし、仕事が忙しくて、子育ては母と母方の親戚に任せていました。母方の祖父が大工で、僕はおじいちゃん子。小さい頃は釣りに行ったり、現場に連れて行ってもらって大工の真似事などして遊んでいましたね。
出典元:日刊ゲンダイDIGITAL
父親は大企業、母親は専業主婦、母型の祖父が大工と平均的なサラリーマン家族の中で良い環境で育っていると言えるでしょう。
中学に上がると髪型は金髪・ロン毛、そして学生服も改造し”悪目立ち”するようになっていたそうです。そして家を抜け出して遊びに行くようになったと言います。
一方で、中学時代はサッカー選手としても活躍していて、すごい実力の持ち主でした。ですが次第に昼はサッカー、夜は暴走族という生活を送りました。
ただ、次第に暴走族の方が楽しくなっていき、そのまま暴走族一筋となったそうです。
瀧川鯉斗さんが所属したチームは「天白スペクター」と言ったそうです。
引用元:デイリー新潮、FRIDAY DIGITAL
気が付いたら名古屋で有名になっていたんです。15歳で総長になって17歳までやりました
出典元:日刊ゲンダイDIGITAL
「ある日の集会で、11代目の総長から任命されたんです。暴走の出席率が良かったのが理由の一つ。それと、僕は『けつまく』っていうポジションが好きでよくやっていたので、それで『気合入ってるな』となったんです」
出典元:FRIDAY DIGITAL
こうして先輩方がまだいる中で抜擢され、12代目総長へと成長しました。
それから高校については
母に“高校だけは”と懇願されてワルが集まる高校へ。でも入学初日に喧嘩して退学に……。高校を辞めてからはこのままじゃダメだと思って17歳のときに東京に出てきました
出典元:日刊ゲンダイDIGITAL
サッカーでのスポーツ推薦も素行の悪さから貰えず、志望校も不合格に。唯一合格できたのがワルが集まる学校でした。
その後、明確な目標は無かったものの、映画が好きだったことからエドワード・ノートンに憧れ、なんとなく「役者になりたい」と役者を志していたそうです。
ですがすぐになれるはずもなく、始めたのが新宿にあった赤レンガというレストランの厨房でアルバイトでした。
ここでのアルバイトが人生を変えるきっかけになります。
実は、その店で瀧川鯉昇師匠が年に2回独演会をやっていたので、独演会を見た際に、すぐに弟子の申出をしたそうです。
その店で瀧川鯉昇師匠が年に2回独演会をやっていたんです。ここで初めて落語を見たんです。演目は『芝浜』。これこそまさに一人芝居の極みだと感じて一気に引き込まれましたね。
その独演会の打ち上げで、すぐに鯉昇師匠に『弟子にしてください』と頼み込みました。そしたら『まず寄席を見に行ってみなさい。そこがおまえの仕事場になるんだから。それでいいと思ったら、また来なさい』と言われまして。で、すぐに行きました。18歳のときでした
出典元:日刊ゲンダイDIGITAL
こんなストーリーがあるんですね。たまたまやっていたアルバイト先が独演会をやる場所だったとは…。人生はやはり出会いが大切であることがわかりますよね。

暴走族の総長…やっぱり喧嘩が強かったのかな…

とあるインタビューで「総長時代には、犬猿だった名古屋市外の暴走族と、深夜の公園で100対100の決闘をしたこともあります。最後は、総長同士のタイマンで決着しました。僕がボコボコにして勝ちましたよ」って話していたから、本当に喧嘩も強かったんだと思うよ!
【画面】瀧川鯉斗の生い立ちと家族構成は?
瀧川鯉斗さんは先ほど記載したように「兄、姉、本人(瀧川鯉斗さん)、弟」という4兄姉弟の3番目です。
幼少期は色々なものに興味を持つ子供だったそうです。そんな瀧川さんの生い立ちを辿ってみましょう。
まずは小学生時代。小学校は名古屋市立八事東小学校出身です。
引用元:WILL
こちらは1873年に開学され、生徒数は約600名程度です。
瀧川さんは小学生時代、父親の転勤の関係で5歳から数年間は札幌市内の小学校に通っていたため、途中でこの学校に転校してきています。
北海道に行く時はフェリーに乗れることが楽しみでワクワクでしたが、名古屋に帰る際は友達と別れることが寂しくて泣いていたそうです。
運動神経は悪くないんですよ。名古屋で育ちましたが、小学校3年からサッカーのクラブチームに入っていましたし、野球でリトルリーグにも入っていました。
出典元:デイリー新潮
当時はスポーツ大好き少年だったようですね。
中学校は名古屋市立御幸山中学校に通っていました。
引用元:御幸山中学校HP
中学生時代は小学生時代と同じく、サッカー部に所属していました。当時サッカー部が設立されたばかりだったそうで、やる気に満ちていたと話していました。
瀧川さんのポジションはゴールキーパーで、その実力は愛知県選抜に選ばれるほどでした。名古屋グランパスユースのメンバーのレギュラーも務めていたそうです。
ちなみに同じ名古屋グランパスユース出身の有名選手を調べてみたところ、
引用元:JFA.jp、ゲキサカ
日本代表の吉田麻也選手やJ1出場試合数1位の山口慶選手などが所属していました。瀧川さんも日本代表になっていた可能性があったことと考えるとすごいですよね。
ですが、上記にもあったように途中で暴走族の方が楽しくなってしまい、次第にサッカーに注ぐ時間が減少していきます。
そのため希望の高校には進学できず、
推薦が受けられず、志望校もスベったんですが、いわゆる地元の悪い奴ばっかりが行く高校だけ受かったんですよ。しかたなく入学式に出たんですが、すでに先輩たちから目をつけられていまして、「おめえ、生意気だ!」と大人数に囲まれるケンカ……「クローズZERO」みたいになっちゃいまして。
こんな奴を入学させるわけにはいかないと、その日のうちに学校から母親に連絡があって、退学です。制服、体操着、教科書も新品のまま……。「それ、どうすんの?」と母に言われて、悪いことしたなと思って謝りました。
出典元:デイリー新潮
入学式があったその日のうちに退学となってしまいました…。
そんなやんちゃに育った瀧川さん。他の3人の兄弟達については、一般人であるため詳しい情報は得られませんでしたが、甥っ子との写真がInstagramに投稿されていました。
引用元:Instagram
「想太郎」という名前であることは分かりましたが、それ以外の家族の情報はありませんでした。
ですが、甥っ子と仲が良いということは、家族付き合いも良好なのだと思います。
瀧川さんご自身も結婚願望があるとのことで、
結婚はもちろんしたいです!子供もほしいなぁ。理想像としては、生まれた子供に愛情を注ぎ合える関係ですね。
僕の両親がそうだったので。僕は中学の時全く先生の言う事を聞かなくて、悪さばっかりして部室で先生に殴られたことがあるんですが、それを偶然僕に弁当を持って来た母親に見られたことがあるんです。
それを見て母親が「もっと殴ってください!」って(笑)。殴られても仕方ない子供だったとはいえ、なかなか言えない言葉ですよね。
出典元:美ST
いつか素敵な報告が聞けるのを楽しみに待ちたいと思います。

暴走族の総長だったってことだけど、家族仲は悪かったの?

ううん!当時は家族仲は良かったそうだよ!母親は特攻服も綺麗に洗濯して畳んでくれてたって話していたよ。ご両親は瀧川さんのことを温かく見守っていたんだろうね。
瀧川鯉斗のプロフィール・SNS
引用元:スポーツ報知
プロフィール
- 名前:瀧川 鯉斗(たきがわ こいと)
- 本名:小口 直也(おぐち なおや)
- 生年月日:1984年1月25日
- 年齢:41歳(2025年5月現在)
- 出身地:東京都(愛知県出身)
- 血液型:O型
- 趣味:バイク、サーフィン
- 所属:公益社団法人落語芸術協会所属
SNS

瀧川さんはYouTubeのチャンネルは運営してないんだね。

運営してないけど、調べてみたら同じく落語家の笑福亭べ瓶さんのチャンネルで登場している動画があったよ!落語家という立場から対談しているので、是非興味がある方は視聴してみてください。
引用元:YouTube